蛙蓮堂 書肆部

アレンドウ ショシブ。書肆と名乗りつつ本を売っているわけではない(まだ)。本屋を巡り、本を探す。

本のしるし

この日曜日、鬼子母神通りみちくさ市が開かれた(けれども今回は行かなかった)。

参考:

行った昨年は突然の雷雨に見舞われて、そろそろ行くかというのにさらにもう1周した記憶もあるが、今回もそろそろ終わりかと言うころに雨に見舞われたのではないかとも思う。さて、その昨年の2023年であるが、前に書いたように、数多くの書評や解説を書いた目黒考二氏が亡くなったということで、形見分けとして本人が持っていた本の即売会が開かれた。1冊200円だったようである。空き倉庫に長く並べられた様はまさに古本市の様相で本も値札をつければそのまま古書店に出せるようなほどのきれいさだった。

「本に書き込みをしますか?」なんて質問は少なくとも私にはどうでもいい質問で、これは宗教問題であるので「ギョウザとシュウマイ、どちらが好きですか?」みたいな、いやわかりやすくたとえるならきのこ・たけのこ論争か。あー、私もそっち派ですとか言いたいだけなのか、別に人がどっちだろうが大したことなくて、勝手にギョウザでもたけのこの里でも食べててくださいくらいのものである。

とは言え、話の都合上、私の主張を書いておくと、自分は書き込みも付箋もドッグイヤーもしない派で、むしろ本にびーびー書き込みする奴なんぞヘイトするくらいに思っている(けれども他人事なので別に非難はしない)。ともかくも別に古本屋に売り飛ばすためにきれいにしているなんてことはさらさらなく、単に再度 読む時にまた新鮮な気持ちで作品に向き合いたいだけのことだ。ただ、先ほどは付箋も貼らないとは書いたが、仕事で使う専門書や取材として読む本は別で、参照したい箇所には付箋を貼り、メモは大きな付箋に書いて貼り付けておく(が、やはり本に書き込みはしない)。

そういえば、高校の現代文の時間で、3学期いっぱいかけて夏目漱石「こころ」を扱うべく、教科書に載っている部分だけでなく全部 扱うから1冊 手に入れてこいという指示が出たことがある。国語の時間なのである意味 当然と言えば当然だが、重要な部分には線を引けと先生がのたまうのである。自分はそれがどうしてもいやで、書き込み用の「こころ」をもう1冊 手に入れた。(そしてそれは多分、ブックオフで100円で売っていたものであろうかと思う)

大学の後輩は何にでも線を引く奴で、教科書に線を引きながら勉強をしていた。再度 書くが何にでも線を引くので、どういう基準で線を引くのか問うたことがある。曰く、大事なところ、との答えである。見たところ8割くらいに線が引いてあるので、よほど大事なことばかりが書いてある本なのだろう。さすが教科書だ。また線に赤線と青線があるので違いを問うたところ、気分だ、との返答であった。私なぞ大学に入るのに過去問を何度も何度も解いて勉強したんだが、こいつは一発で解けるようになったのか、それとも解く度に新しい過去問集を用意していたのか、それとももともと頭がよくてそういうことすらしていないのか。まぁこれも昔のことだからどうでもいいことだ。

古本も書き込みがあると値段も安くなることが往々にしてあるかと思う。専門書の類は前の持ち主の心情など気にせずに読むので線の引いてあるのを安く買うのもある。が、さすがにピンクのマーカーでびーびー引いてあるのは少し逡巡する。たまに謹呈とか、ついでに一言 添えられているものもあるが、これは見開き部分だけだからまったく気にするほどでない。また、蔵書印が捺してあるものにも出会うが、むしろこちらは喜ばしく迎えそうな気がする。散々に本はきれいなままでなければならない主張をしていた気もする私であるが、サイン本はいくつかあるし、会合でご一緒した際に本人にサインをお願いしたこともある。

昨年はまた別の機会で、自分の業界の大御所先生が亡くなっていわば偲ぶ会が催された。ここでも蔵書の形見分けが行われ、何冊かいただいてきた。こちらは蔵書印や本人のサイン、場合によっては手に入れた年と場所が書き込まれていた。

実際のところ、こうやって著名人の形見分けのときは、確かにその人がこの本を持っていた、という証左が、蔵書印なりサインなどで「しるし」として刻みついていてほしいというのは確かに感じるのである。そして本人に近ければ近いほど、図鑑に書き込まれた「極極稀」のような文字もむしろいとおしく感じるのではと想像する。これも多分に気分なのだが、そして自分としても矛盾していると思うのだが。

かといって、自分も将来の形見分けのために蔵書印でも捺すだろうか? あくまで平凡な自分にはやはりためらわれる。本が貴重で自分の所有物であると主張する価値が今は薄いから? いずれまた古本として次の持ち主に手渡したいというモノとしての価値を感じているから? 自分としてもよくわからない。宗教や心情に理由などないのだ。カッコイイ蔵書印を作ったとして「一生 手放さない。棺桶に入れて焼いてくれ」というような本にそれを捺すだろうか? やはり捺すことはしないような気がする(なら作っていつ捺すのか? 何に捺すのか?)。ましてや人の形見分けの本に、自分の蔵書印をさらに捺すようなそんな中国の掛け軸のようなことは、さすがにする気もない。ただそういう本なら一度、どこかで見てみたい気があるのも、自分の中の正直なところなのである。