蛙蓮堂 書肆部

アレンドウ ショシブ。書肆と名乗りつつ本を売っているわけではない(まだ)。本屋を巡り、本を探す。

ボーダーラインの壁

今日もまた本を買ってしまった。が、別に後悔はまったくしていない。神保町に来て、本を何も買えずに電車に乗る方が、よっぽど腹立たしく、後悔にさいなまれるものだ。

家の近所にも通勤の途中にも古本屋があるわけではないので(正確には職場近くに5分ほどの寄り道でBOOK OFFはあるのだが)、古本屋を覗くのも月に何度か程度だ。毎度なじみの本棚を眺めたところで、顔ぶれが大きく変わっていることはそうそうない。とすると、必然的に今日は収穫が特になかったということも往々にしてある。そういう日は「まぁこんな日もあるか」と思うようにはしているが、その本棚を見る間隔が開けば開くほど、そして、探している本があればなおさらに期待が高まって、落胆も大きくなる。これも探書熱の高さの所以か。

そもそも、神保町のような本屋街を歩いていたって、よくぞ今日 出会ってくれた、と帰りの電車でさっそく取り出して読みたくなるような本を見つけ出すなんてことはそんなに頻繁には起きないわけで、多くはまぁ買ってもいいか、というような程度のことがむしろしょっちゅうである。卑近な例では夏の文庫100冊フェアもそうで、景品はほしいが買う本がないということだって毎年のように感じている。こちらもラインナップが大きくは変わったりしないのだ。読みたい本はすでに買っている。そんな「興味はあるが買わなくても許せる本」を拾うか放っておくか、実に悩ましい。

そんなどうでもいい時、本を1冊買うのが実は苦手だ。逆にどれか1冊でも閾値(ボーダーライン)を越えてレジに向かう時、買わなくてもいいか、とした本を連れていくことが多い。自分としては、貴重な出会いをありがとう、これからも頑張ってください、というお礼の意味と言い訳する。しかし実際は、ケーキ屋で1個だけケーキを買うのがためらわれるような気持ちと同じなのかと思う。ケーキの場合、「あぁ、この人は帰ってひとりケーキを食べるだなぁ」ではなく「きっと誰かと一緒にケーキを食べるのね」と思われる要らぬ羞恥心なのか、重ねて言い訳すればひとつに選び切れないのでせっかくだからいくつか買おうという気持ちなのだが、この場合は、買うラインが下がっただけで、買うと決めたらケーキと焼き菓子と、というのが近いのか?(自分でもわからなくなってきた)。

連れ立って神保町に行った時なぞ、しばし熱中して個々に物色したあとで合流してみれば、その手に束で本を持っていたとなるとぎょっとしてしまう。別に会計の金額を恐れているのではない。自分は1冊も持っていないのになんたるザマだ、という驚きである。「ここは東京堂、自分は新刊本より古本が好きなのだ」と言い聞かせつつ、すかさず平積みされた文庫本に目を走らせ1冊抜いて、自分も買ったという事実とともに図書カードとメンバーズカードも取り出すのだ。決してボーダーラインを下げたのではないと思いつつ。

そしてまた、部屋に本が平積みされた。そのあたりの駅で、それか旅行先でついもらってきたフリーペーパーを処分すれば、多少のスペースも生まれるだろうと思ってきたが、高くなる城壁にそうも言っていられなくなってきた。数々 読んできた中には少しはハズレの本も含まれているわけで、普段は本は買いっぱなしで手放さないのだが、少しはボーダーラインを下げて売り飛ばした方がよかろうなぁ、と床に崩れた本を拾いつつ思う。あ、でもまずは転職した時に実家に送りつけた8箱の段ボール箱の中が先か。実家にある分、未練も少なかろう(そしてこれでは自室の本の解決にはまったくならないのではあるが)。