蛙蓮堂 書肆部

アレンドウ ショシブ。書肆と名乗りつつ本を売っているわけではない(まだ)。本屋を巡り、本を探す。

本のしるし

この日曜日、鬼子母神通りみちくさ市が開かれた(けれども今回は行かなかった)。

参考:

行った昨年は突然の雷雨に見舞われて、そろそろ行くかというのにさらにもう1周した記憶もあるが、今回もそろそろ終わりかと言うころに雨に見舞われたのではないかとも思う。さて、その昨年の2023年であるが、前に書いたように、数多くの書評や解説を書いた目黒考二氏が亡くなったということで、形見分けとして本人が持っていた本の即売会が開かれた。1冊200円だったようである。空き倉庫に長く並べられた様はまさに古本市の様相で本も値札をつければそのまま古書店に出せるようなほどのきれいさだった。

「本に書き込みをしますか?」なんて質問は少なくとも私にはどうでもいい質問で、これは宗教問題であるので「ギョウザとシュウマイ、どちらが好きですか?」みたいな、いやわかりやすくたとえるならきのこ・たけのこ論争か。あー、私もそっち派ですとか言いたいだけなのか、別に人がどっちだろうが大したことなくて、勝手にギョウザでもたけのこの里でも食べててくださいくらいのものである。

とは言え、話の都合上、私の主張を書いておくと、自分は書き込みも付箋もドッグイヤーもしない派で、むしろ本にびーびー書き込みする奴なんぞヘイトするくらいに思っている(けれども他人事なので別に非難はしない)。ともかくも別に古本屋に売り飛ばすためにきれいにしているなんてことはさらさらなく、単に再度 読む時にまた新鮮な気持ちで作品に向き合いたいだけのことだ。ただ、先ほどは付箋も貼らないとは書いたが、仕事で使う専門書や取材として読む本は別で、参照したい箇所には付箋を貼り、メモは大きな付箋に書いて貼り付けておく(が、やはり本に書き込みはしない)。

そういえば、高校の現代文の時間で、3学期いっぱいかけて夏目漱石「こころ」を扱うべく、教科書に載っている部分だけでなく全部 扱うから1冊 手に入れてこいという指示が出たことがある。国語の時間なのである意味 当然と言えば当然だが、重要な部分には線を引けと先生がのたまうのである。自分はそれがどうしてもいやで、書き込み用の「こころ」をもう1冊 手に入れた。(そしてそれは多分、ブックオフで100円で売っていたものであろうかと思う)

大学の後輩は何にでも線を引く奴で、教科書に線を引きながら勉強をしていた。再度 書くが何にでも線を引くので、どういう基準で線を引くのか問うたことがある。曰く、大事なところ、との答えである。見たところ8割くらいに線が引いてあるので、よほど大事なことばかりが書いてある本なのだろう。さすが教科書だ。また線に赤線と青線があるので違いを問うたところ、気分だ、との返答であった。私なぞ大学に入るのに過去問を何度も何度も解いて勉強したんだが、こいつは一発で解けるようになったのか、それとも解く度に新しい過去問集を用意していたのか、それとももともと頭がよくてそういうことすらしていないのか。まぁこれも昔のことだからどうでもいいことだ。

古本も書き込みがあると値段も安くなることが往々にしてあるかと思う。専門書の類は前の持ち主の心情など気にせずに読むので線の引いてあるのを安く買うのもある。が、さすがにピンクのマーカーでびーびー引いてあるのは少し逡巡する。たまに謹呈とか、ついでに一言 添えられているものもあるが、これは見開き部分だけだからまったく気にするほどでない。また、蔵書印が捺してあるものにも出会うが、むしろこちらは喜ばしく迎えそうな気がする。散々に本はきれいなままでなければならない主張をしていた気もする私であるが、サイン本はいくつかあるし、会合でご一緒した際に本人にサインをお願いしたこともある。

昨年はまた別の機会で、自分の業界の大御所先生が亡くなっていわば偲ぶ会が催された。ここでも蔵書の形見分けが行われ、何冊かいただいてきた。こちらは蔵書印や本人のサイン、場合によっては手に入れた年と場所が書き込まれていた。

実際のところ、こうやって著名人の形見分けのときは、確かにその人がこの本を持っていた、という証左が、蔵書印なりサインなどで「しるし」として刻みついていてほしいというのは確かに感じるのである。そして本人に近ければ近いほど、図鑑に書き込まれた「極極稀」のような文字もむしろいとおしく感じるのではと想像する。これも多分に気分なのだが、そして自分としても矛盾していると思うのだが。

かといって、自分も将来の形見分けのために蔵書印でも捺すだろうか? あくまで平凡な自分にはやはりためらわれる。本が貴重で自分の所有物であると主張する価値が今は薄いから? いずれまた古本として次の持ち主に手渡したいというモノとしての価値を感じているから? 自分としてもよくわからない。宗教や心情に理由などないのだ。カッコイイ蔵書印を作ったとして「一生 手放さない。棺桶に入れて焼いてくれ」というような本にそれを捺すだろうか? やはり捺すことはしないような気がする(なら作っていつ捺すのか? 何に捺すのか?)。ましてや人の形見分けの本に、自分の蔵書印をさらに捺すようなそんな中国の掛け軸のようなことは、さすがにする気もない。ただそういう本なら一度、どこかで見てみたい気があるのも、自分の中の正直なところなのである。

神保町トイレ問題

給料が振り込まれて、少し多めに下ろした。夕飯の食材をスーパーに買いに出るたびに、一万円札で払って千円札を手に入れた。これも、神田古本まつりに参戦するためである。

今日から神保町で春の古本まつりが始まった。前段の行動は半年前の秋の古本まつりでのことだが、今回も似たり寄ったりだったのは間違いない。秋の方が有名で規模も大きいし、気合いも乗っていただけのことだ(古本欲が高かったのもある)。昨年の秋も今回も、仕事が忙しくてさすがに平日に行くことはかなわないのだが、前回も土日ともに参戦して思わぬ収穫を得られたし、今日もしょっぱなからいい本を引き当てたので、また今度の土日にも参戦して新たな出会いを求めたい。そもそも今日は午後から雨が断続的に降ったし、強風で店の人たちも難儀していたので、まだ半分も見ていないのだ。

ありきたりながら新型コロナももはや(感染状況などの情報が表に出なくなって)過去のものとなって、イベントなども通常通り行われることとなり、10月末の方はいつになくすごい人手で、すずらん通りのイベントも大盛況すぎてなかなかブースに近づけず、移動するのも少々難儀したほどだった。

人が多いのは、街にとっても業界にとってもいいことだと思うのだが、それ以上に、とは言ってもあくまで個人的な事情だが、困るのはトイレなのである。私も本のニオイを嗅ぐとトイレに行きたくなるクチで、本読みの中では改めて触れるべくもないが、本にまみれると、つまり新刊、古本問わず(というか人それぞれだが)本屋に行くとトイレに行きたくなるという現象が広く見られるようで、これが世にいう「青木まりこ現象」である(Wikipediaにも項目がある)。私の場合、新刊本もそうだが手垢のついた本により反応する。なので古本屋の方が腹にくるし、図書館でも腹が反応する。

神保町でお世話になってきたトイレの二大巨塔は三省堂神保町本店と岩波ホールの入っていた地下鉄A6出口の地下1階であった。しかし、今は三省堂は小川町の仮店舗に移って元の場所は更地だし、岩波ホールも閉業してトイレも使えなくなっている。ということで、現在お世話になっているのは、東京堂書店か、岩波アネックスの方の本屋 兼 カフェ、あとは書泉?(もしかして使ってはいけない?)…そんなところだろうか? しかし、これらは三省堂や岩波ビルと違って個室の個数が圧倒的に少ないのだ。。。(三省堂は複数のフロアにトイレがあったのでトータルとしても数が多かった)。

今日も東京堂にお世話になったが、春はまだ人が少ないので、数分並んだだけで済んだ。秋も、外は大賑わいということもあってトイレ事情が懸念されたのでクリティカルになる前に東京堂で早めにトイレに赴き、しばらく並んで事なきを得ている。しかし女性の方はトイレの外でも長蛇の列だったので、男性の方も同様に長蛇の列なのかと来る人みんなに一瞬の悲壮感が漂うほどであった。

昨年は京都の三大まつりに参戦したので(当然ながら古本のまつりである)、下鴨神社ではトイレットペーパー代わりの水に流せるティッシュをレトロな自販機で購入したし、知恩寺でも寺の裏の物置のようなトイレも経験済だ。が、この時はそれほど並びはしていなかった。京都では便意がどこかに行くわけでもなかろうし、関西人は便意とは無縁というわけでもなかろうし、はたまた規模がそれほどまでに違うわけでもないと思うのだが。なかなかに不思議に思う。

SNSで古本まつりの情報収集(あるいは戦果の報告)などを見るに、店側(ワゴン)の手伝いをしているような特級(=神保町の手練れ)の人々は、しれっとどこぞのトイレに行っているようだ。それか便意を催さないような体質に鍛えているわけでもないとは思うのだが、ぜひこういう方々にはどこのトイレを利用していているのか聞かせてほしいものだし、神保町も最近は店の入れ替わりがあるので、むしろトイレだけ作ってくれないかと、むしろお賽銭くらいは払うのに、などとも思ったりする。まぁこれも三省堂書店が戻ってくるまでか(とはいえ、あと2年くらいあるようではあるが)。ぜひ三省堂さんにはトイレも頑張っていただきたいなぁ、と今から謎の期待をしているところである。本の戦場(いくさば)に出ると、優雅にコーヒーなど飲む間も惜しいのだ。。。(というか、お茶するための席の確保もトイレ同様に熾烈なのだが)

単行本と文庫本(そして新書)

久々に行った神保町で、澤口書店を覗いたら、探していた本を店の奥の、本棚の端で見つけてしまった。巌松堂ビル店は隙あらば寄っていたが、数軒隣の東京古書店にいたかと悔しがりながら、買うのが1冊だけでは名折れと勢いづいて、さらに2冊を本棚から引き抜き、まさに嬉々として会計を済ませ、裏に入ってアイスカフェオレなどを飲みながら、ペラペラと他の本屋での戦果も振り返った。

その時はまだ気づいてなかったのである。

もしかしてと思ったのは帰りの電車の、しかもそろそろ降りようかというころで、果たして帰宅して確認すると買った文庫本の単行本版が積んであったのである。

いや、確かにこの文庫版を買う時はページをめくり、知らない本だと確信して買っているのである。まぁ、自分としては資料の類の本だから、記憶から抜けていたのだろう。そして巻末を見たらば単行本に加筆修正して文庫化したとあったから、まぁ悔いはない(単行本版は売るかもしれないけれども)。

単行本を持っているのにそれを失念して文庫本を買ってしまうのはむしろアクシデントだが、先日はNHKで「植物男子ベランダー」としてドラマ化された「自己流園芸ベランダ派」の単行本を見つけてしまい、文庫本があるのに(しかも、いずれ書くだろうが2冊ある)手を出しそうになって逡巡して結局やめたというのがあった。この場合は未遂だが、実際に意図的に両方買ったこともある。ちょうど1年前か、ちょこちょこ買っていた「本の雑誌」をとうとう定期購読しはじめたのだが、なんかそのあたりのなんやかんやで「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」なる本を知ったのである。ほぼタイトル買いだ。そのへんに買いに行って手に入る本でないのでヤフオクに頼ったのだが、単行本版の表紙が味噌蔵だったのでこちらを買い求めた。と、相前後して本の雑誌の主要メンバーである目黒考二氏が亡くなった、とのこと。氏は本の雑誌内でも多くの書評を書くとともに、文庫本の巻末で多くの解説を寄せていた。そして、このもだえ苦しむ〜(以下略)も解説を書いているらしい。そして単行本にはこの解説がついていない。そして何より、この「活字中毒者」は著者の椎名誠目黒考二をモデルに書いたものでもある。これは読みたい。はたして再びヤフオクで、今度は文庫版を落札したという次第だ。そして文庫の巻末で、あくまで冷静に書かれた解説を目にしたのであった。

やはり自分は、値段がどうこうということと、(すでに無駄な抵抗ながら)場所をとらないのと、持ち運びやすいのと、あとは判型が揃っているからだろうか。単行本は滅多に買わない。新刊本は特に見もせずに新書や文庫の棚しか見ない。まぁ大型書店の入口付近の書店の推しの棚はむしろ好きだから見るし、そこで買うこともあることはあるのだが。ただこれはあくまで文芸書の話で、専門書や趣味の本は単行本でも気にはしない。

まだ高校生のころ、ガチ文芸評論家ふたりによるブックガイド本に(というか、小説をタイトル、イントロ、会話などに解体した本なのだが)、作家でも浅田彰の「構造と力」を読めるヤツと読めないヤツがいる、もっと言えば読んだフリをするヤツみたいな話が書かれていた。それに影響され、近所の図書館で蔵書されているのを借りて読み(ってニューアカブームの火付け役として前に売れたそうだからこうやって蔵書されているわけだ)、まぁ難解な哲学書なのだがある意味かぶれてしまい、その流れで、次に出た「逃走論」も、こちらは刺激的に読んだ(そして大学の教養課程でとった社会学のレポートの素材とした)。おぼろげだが、「構造と力」の方は、大学の研究室で食べに行ったお好み焼き屋のそばにあった町田のブックオフで100円で売られていたのを買っている。余談だが、この時、母親が憧れもこめて敬愛していた円地文子源氏物語も1冊100円で全巻揃っていて電話したら欲しい!と言われたので買い占めた。その分、楳図かずおの「わたしは真悟」の文庫版を、ラジオドラマの原作として見つけたのだがお金と持てるキャパを越えて買い占められず、揃えるのに非常に苦労することになる。「逃走論」の方は、池ノ上の古本屋(文紀堂書店)で買ったように思う。当時、近所に住んでいたのだ。そして、この文紀堂書店は、今は仙川に移転して、こちらは今の住まいからそれなりに近いのでなかなか縁が深い。余談もだいぶ長くなったが、逃走論の方はしばらく前に文庫化されている。そして、先日、構造と力の方も40年の時を経て文庫化された。しかも、東京堂書店(神保町)では、刊行から何週にも渡って文庫の売り上げ1位を継続するのを目の当たりにしており、誰が買っているんだとか、そもそもちゃんと読んでいるのか(そりゃ自分も積読派なので読むわけもない気もするが)、イントロはまぁ読めるとして本論まで辿り着いているのか、と、あなたはどうしてその本を買うのですか、とちょっと問い詰めたい気持ちで事態を眺めていた。ただまぁ、古本屋で勁草書房の単行本と、文庫の両方が並んでいたらば、どちらを買うだろうか。自分は単行本で買ってしまう、という気もしなくもない。かっこいいから? いや、わからん。。。ちくま文庫は充分にかっこいい。

最近、ちょっと心を揺すぶられたのが、草森紳一「本が崩れる」の文庫本を今さら見つけてしまったことだ。新書版を、出先の大阪・天神3丁目商店街(略して天三)で見つけ即買いしたのだが、文庫本は表紙が本の山の写真になっていて、非常に訴えてくるのである。しかし、新書と文庫では縦横比が異なる。その時は自分の中で新書ブームだったので手を出さなかったが、中の写真の扱いによっては今後 買うことを決めるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

本屋と休日

旅に出た。

とはいえ、古本屋めぐりを旅の目的にするのは、京都三大祭り(春の都メッセ、夏の下鴨神社、秋の知恩寺)くらいのもので、仕事で出張だったり、何かイベントに行ってみようであったり、日常を忘れてふらっとだったり、いつもは一応 メインの要件があることがあるのが常である。とはいえ、やはり地元の名物書店は新刊、古本問わず調べておいて、隙あらば、と言いながら予定をおしのけてでも隙を作ってなんとか本屋に寄ろうとする。ひどいのは出張でタスマニアに行った時で、地図でホテルの場所を確認するついでに "2nd hand books" などと検索してしまい、近所に古本屋があるのを発見して読みもしないだろうのに数冊の本を買って帰ってきたことだ。やはり入り口に1ドル均一コーナーが作られ、なかなか味わい深かった(ここからも本を買った)。

つい先日も、新幹線に乗り旅に出た。駅スタンプを捺し、そばをしこたま食らった後、店主セレクトがおもしろいと聞いていた本屋に手元の地図を頼りに向かう。

店は閉まっていた。張り紙曰く、都内のイベントに参加するため店を休むとある。ガラス窓に鼻の脂が付くほどに顔を近づけ、あぁ、あの本はなどとただつぶやくのみである。この日はしかたなく、薄暗くなってきた中を、これまた地図に落とし込んでいた長年の風雪に耐えた激シブな古本屋で、郷土臭の強いラインナップをかみしめながら数冊の文庫を手にした。

その行けなかった本屋だが、部屋に戻って調べるに、新宿の駅ビルでのイベントに参加するらしい。今日、その新宿のビルのほぼ真横を通ってここまで来ましたとも。イベントは前日からやっていたようで、みちみち調べれば行くことができたかもしれないのがまた悲しい。そして、帰った翌日の3連休3日目に行けばいいとこの時は思っていたのだが、すでに前日にイベントが終わっていたことに、当日になって気づいたのであった。

話を旅先に戻すと、翌日も昼からまた同じ場所に向かい、今度は前日と逆方向の南方面を攻める。地元のパンを食べ、ご当地文房具を買ったりして、やはり古本屋にも今日も行く。まず行き着いたのが店主らの厳選した本だけを並べた小さな本屋で、店のロゴをデザインした書家のイベントに出くわした。その後、このあたりで一番大きな古本屋を目指す。

休みである。3連休の2日目。今日は日曜日なのである。神保町だって日曜日にたいていの古本屋は定休日だ。ガラスの至近距離から店内を物色するのも今回2回目。ただうなるだけで虚しさがつのる。当たり前だがどうして休みなんだと叫ぶ。みんなが寄ってたかって自分の邪魔をする。が、黙って耐えるしかない。帰りしなに寄った駅ビル内の名物書店で沢木耕太郎「旅のつばくろ」に宮沢賢治の詩が書かれた書皮をかけてもらい、旅先で出会うにふさわしいと運命を感じて少し気がおさまった。

家に戻った晩、くやしさと虚しさに寝つけずにいると、ふと、この感情が昆虫採集帰りの車窓に似ていると気づいた。図書館でガイドマップを借り、地図に丸をつけ、1年に今だけしか飛ばない蝶を採りに行く。あちこち歩き、ここぞと目を凝らし、網を振る。目的のものが採れれば帰りの車内でこっそり、しかし何度もチラ見して喜びをかみしめる。しかし、全く見つからずただ歩いて終わった時もあれば、目の前で逃げられたり網の届かない頭上を飛んでいるのを見上げるだけの時もある。そんな時、いくら他の珍しいものをつかまえたとしても、ボックス席でひとり、甲府駅大月駅の発車待ちや山あいをぼんやり眺める中央線普通列車 高尾行きの車窓はただただ虚しく、また1年後のリベンジを淡く思うのみである。それに比べれば古本屋なんて、店のある限りいつでも行けばそこで待っているのだ。

そしてまた、新幹線に乗って旅に出た。前回と違う場所だ。駅スタンプを捺し、昼食に駅そばを食らい、降り出した雪の中、歩いて古本屋に向かう。バスの時間が合わなかったのである。昼も過ぎたし、さすがに開店しただろう。昨年も来たが、この古本屋に行くのは初めてなのだ。雪とマスクでメガネが曇る。マスクをはずすと空気が冷たい。

果たして、店にはシャッターが下り、店名の書かれたカマボコ板のような木札がただ揺れているのみである。いつもはSNSに流れる営業予定が今週は流れていなかった。普段は開いているからと向かったのが甘かった。この展開はわかっていたのだ…。しかたなく、ここまで来たので近くのリノベーションされた市場通りで雑貨店や飲食店の前を素通りし、戻りがてらに寒いからとカフェでコーヒーを飲み、向かいのバス停から数分後にちょうどあったバスに乗って次の古本屋の近くまで向かう。乗った次のバス停が先ほど閉まっていた古本屋の目の前、これで店が開いていたら笑うわーなどと言えば、本当に店は開いている。ちょうどバスが停車して客を載せているので、開いている店の写真をささやかに車内から撮る。乗ってきた客の手には文庫本が握られていた。バスは、歩いてきた道を何も考えずに戻っていった。

その後といえば、何人かの一棚オーナーによる(一応)古本屋と、これまた店主のセレクトの光る本屋で本の匂いを体内に充足させ、そしてまた持っているトートバックにも本が充填された。もう雪は上がっていて、川沿いの道はむしろ明るい。駅へと向かうメインの通りを、宿へと連れ立って向かいながら、先ほど閉まっていた古本屋へと向かう分岐を何もなく通り過ぎた。時刻は夕方5時。まだ店は開いているかもしれない。しかし、やはり行くのだとはついぞ言い出せず、今回は縁がなかったのだと3回つぶやいた。むしろこちらからお断りだと1回だけ強がった。縁があれば、来年にでもまた来れるだろう。ここには前年も同じ時に来たのだから。今回はこれでよかったのだ。よかったのだ。よかったのだ…。

そしてホテルに向かって部屋に本を置き、駅ナカの立ち飲みで日本酒を呑んだ。

 

 

 

 

タスマニアの古本屋の看板

 

イベント参加のため本日はお休みの張り紙

 

激シブな古本屋

 

この地域で一番 大きな古本屋は日曜日が定休日だった

 

1330:閉まってるぅー(今週はインスタで営業時間のポストがなかったし

1430:開いてるぅー(バスの中から。まさかねとか思ったら

 

この店には店員はいない。あらかじめ入口のキー番号を教えてもらって入る。

 

去年もこの本屋には来た。セレクトがツボにはまって選ぶのに困る。



ボーダーラインの壁

今日もまた本を買ってしまった。が、別に後悔はまったくしていない。神保町に来て、本を何も買えずに電車に乗る方が、よっぽど腹立たしく、後悔にさいなまれるものだ。

家の近所にも通勤の途中にも古本屋があるわけではないので(正確には職場近くに5分ほどの寄り道でBOOK OFFはあるのだが)、古本屋を覗くのも月に何度か程度だ。毎度なじみの本棚を眺めたところで、顔ぶれが大きく変わっていることはそうそうない。とすると、必然的に今日は収穫が特になかったということも往々にしてある。そういう日は「まぁこんな日もあるか」と思うようにはしているが、その本棚を見る間隔が開けば開くほど、そして、探している本があればなおさらに期待が高まって、落胆も大きくなる。これも探書熱の高さの所以か。

そもそも、神保町のような本屋街を歩いていたって、よくぞ今日 出会ってくれた、と帰りの電車でさっそく取り出して読みたくなるような本を見つけ出すなんてことはそんなに頻繁には起きないわけで、多くはまぁ買ってもいいか、というような程度のことがむしろしょっちゅうである。卑近な例では夏の文庫100冊フェアもそうで、景品はほしいが買う本がないということだって毎年のように感じている。こちらもラインナップが大きくは変わったりしないのだ。読みたい本はすでに買っている。そんな「興味はあるが買わなくても許せる本」を拾うか放っておくか、実に悩ましい。

そんなどうでもいい時、本を1冊買うのが実は苦手だ。逆にどれか1冊でも閾値(ボーダーライン)を越えてレジに向かう時、買わなくてもいいか、とした本を連れていくことが多い。自分としては、貴重な出会いをありがとう、これからも頑張ってください、というお礼の意味と言い訳する。しかし実際は、ケーキ屋で1個だけケーキを買うのがためらわれるような気持ちと同じなのかと思う。ケーキの場合、「あぁ、この人は帰ってひとりケーキを食べるだなぁ」ではなく「きっと誰かと一緒にケーキを食べるのね」と思われる要らぬ羞恥心なのか、重ねて言い訳すればひとつに選び切れないのでせっかくだからいくつか買おうという気持ちなのだが、この場合は、買うラインが下がっただけで、買うと決めたらケーキと焼き菓子と、というのが近いのか?(自分でもわからなくなってきた)。

連れ立って神保町に行った時なぞ、しばし熱中して個々に物色したあとで合流してみれば、その手に束で本を持っていたとなるとぎょっとしてしまう。別に会計の金額を恐れているのではない。自分は1冊も持っていないのになんたるザマだ、という驚きである。「ここは東京堂、自分は新刊本より古本が好きなのだ」と言い聞かせつつ、すかさず平積みされた文庫本に目を走らせ1冊抜いて、自分も買ったという事実とともに図書カードとメンバーズカードも取り出すのだ。決してボーダーラインを下げたのではないと思いつつ。

そしてまた、部屋に本が平積みされた。そのあたりの駅で、それか旅行先でついもらってきたフリーペーパーを処分すれば、多少のスペースも生まれるだろうと思ってきたが、高くなる城壁にそうも言っていられなくなってきた。数々 読んできた中には少しはハズレの本も含まれているわけで、普段は本は買いっぱなしで手放さないのだが、少しはボーダーラインを下げて売り飛ばした方がよかろうなぁ、と床に崩れた本を拾いつつ思う。あ、でもまずは転職した時に実家に送りつけた8箱の段ボール箱の中が先か。実家にある分、未練も少なかろう(そしてこれでは自室の本の解決にはまったくならないのではあるが)。