蛙蓮堂 書肆部

アレンドウ ショシブ。書肆と名乗りつつ本を売っているわけではない(まだ)。本屋を巡り、本を探す。

一度は手にしたヤツだから(うぬぼれ)

そりゃあ本をたくさん買っていると、少しははずれの本も引き当てる。別に本が目に入ったから次の瞬間にその本を手にしていたなんてことはなく、それなりに吟味して本は買っているので、本来ならばそんなにはずれを引き当てるなんてことは少ないはずだ。えてしてはずれの本というのは夏の100冊の景品ほしさにとか、5冊買うと値引きとか、ある意味ひねり出して買った本が多いかもしれない。それに次ぐのが初めて入った旅行先の本屋でオリジナルのブックカバー(書皮)ほしさにというのがあるが、これは多少はずれでもまだ思い出に取っておきたい方が勝ってしまって、あまりはずれと思わないようにしたいと言い聞かせている。

本持ちあるあるで、家の本の地層が隆起を重ね、新たな山とか壁とかが築かれるので、さすがにはずれの本は次の行き先を考えてもらうこととした。ちょうどそんな時に一箱古本市があるから一緒に出さないかと(隣から)誘いを受け、これ幸い、いい経験と引き受けることにした。

本の山を久々に崩して、いらない本をピックアップする。いつか読むかもと積みっぱなしの本を片っ端から読んで、とっておく、とっておかないとより分ける。これは一読してから出してやろうと思ったのに半分くらいは意外と面白くて出品を免れる。続き物を一冊ずつ買っていたが結局は揃いで買ってしまいダブったものも出すことにする。若いころにイキって買ってしまった小難しい本は古本市でなくヤフオク!にでも出す方がいいだろう。

こうして、だいたい一箱分の本を見繕って、値段でもつけようかと本を前にしてふと思うのである。これは自分らしいラインナップなのかと。古本市に出店するのに、店の紹介文などこさえて事務局に送ったのである。自分は古本屋で本を買うのに一癖二癖期待して通うのである。それがこうやって自分の目の前を通り過ぎていく本たちはある意味、自分にとって残りカスなのである。そんな残りカスに自分のアイデンティティが投影されているのだろうか? こんな残りカスに他人は魅力を感じるだろうか? 本当なら丸山健二とか岡本綺堂とか、最近の自分の中で推している本を出すべきではないのだろうか?

出す本の中に近現代中国史の本があった。大学の教養課程でなんとなしに中国経済(とその背景)の話を聞いてきた時に買ったものだ。このときはまだ鄧小平は生きていた。さすがにもう必要ないと思って出すことにしたし、これならば興味のある人がいるだろうと思ったのだ。確かに今の自分には不要でカスかもしれないが、当時の自分を形づくりには重要な本であったし、手に取った誰かには肥やしとなるだろう。これも新陳代謝かと思ったら、まぁよしかと思えた。ついでに、せっかくだからZINEを作って出すけども、と言うので、これまた便乗で作ってみることにした。これは自分らしい代物だから、アイデンティティを籠められる気がした。

出店する参考にと言い訳じみた理由を言われて連れ立って古本屋にまた出かけた。そこには自分はもう持っているけれど、初版で帯付きの内田百閒のちくま文庫があって隣で悩んでいたので、それを買って玉突きで持っているのを出せば、と言ってみた。納得したようにそれを買い、コレクションを充実させていた。自分もこの前、ワゴンで見つけた丸山健二初期短編集を買っておけばよかった。そんな感じで、新たな古本ステージへとさらに足を踏み出している。

本て増えるよね

 

古本を前に相場チャートを読む

2024年も神田古本まつりが終わった。数日 雨が降ったりしたが、先週末は何とか持ちこたえて、今週末は天気も良く、一通りワゴンを見ることができて満足である。

靖国通り沿いに出るワゴンは数百メートルに及ぶので、端から端まで見るのは1日がかりである。場合によっては1日では見られない年もある。そしてまた、見かけた本をその時に買うべきか買わざるべきかは本当に悩ましいというのは大規模な古本市になれば本当にあるあるな事態と言える。最近は、買った本も数が増えてきて把握しきれなくなったので、自分の場合はノートに購入本リストをつけている。はたまた、シリーズでとか、その作家をすべからくといった場合は、どのくらい揃えたのかを 外部記憶装置 と称して本棚をケータイで撮ってワゴンの前で写真を見比べている。なので、ケータイを見ているからといってAmazonやヤフオクで相場を調べて、はたまた高くで売ってやろうなんて考えは微塵もない。ともかくも、今日は先も長いし、あるいはもう持てないし、今回はこのくらいにして次回にレスキューしに来ようなんて考えは浅はかで、数日後に見にきたらあんなにあった誰ソレの本がきれいさっぱりごっそりとなくなっているというのが古本まつりである。

そもそも古本まつりや古本市ではほんの数十分の戦いが繰り広げられているのであって、今日の最終日の午後まで残っていた青蛙房版 岡本綺堂日記(正・続)が前の店で7,000円の書き込みがしてあるのを1,000円になっていたが(とはいえ、多分に途中で補充されたに違いないのだが)、どうせ買っても眺めるだけで読まないだろうしと見送って、でもせっかくなのでと数十分後に戻ってみればすでに持ち去られた後で、去年の今ごろにあった京都・知恩寺の 秋の古本まつり でも琉球王朝の人物伝のような本を、どうせ誰も興味ないだろうと後回しにして、戻ってみれば連れさらわれた後だったりするわけだ。

というわけで、見かけたら即 買うべき、と言いたいところなのだが、そういうわけでもないのがまたつらいところである。

こういう古本市は不思議なもので、見つからないときはどのワゴンを見てもその本はない。そして逆にずっと探していた本をどこぞで見つけると、その日は別のワゴンでも、はたまた別のワゴンでもとあちこちで見かけるものである(あくまで個人の感想です)。ということで、先週に丸山健二の単行本を買わずに帰ってしまい、今回はやはりワゴンから消えてしまっていて、何か見つけたら買いだな、と見ていたところに、「争いの樹の下で」(上・下)を1,600円で見つけ、うーん、前回ひととおり見たときはどこにもなかったし、少し高い気もするし、いつかどこかで会える気もするしと手にとっては戻しを悩みつつ3回繰り返し、でもまぁどうせならと買ってみたところ、その数十分後に別のワゴンで1,000円で売られているのを見つけてしまい、実際のところ、ここでは同等か高い値段で売られているのを確認するために値段チェックをする訳だが、さっきはパスするのが正解だったかと思うなんてこともしばしばなのである。以前も、数軒目に入ったところでさっき買った文庫本があるよ、しかもこっちの方が安いし、さらには状態もいいし、なんてことがあって、こっちも買ってさっきのを売り飛ばそうかとか真剣に考えるなんてこともあったし、数ヶ月前にもヤフオクでこんくらいの値段するよねと2,500円で落札した本が、どこぞのバザーで1,000円で売られているのを見かけたりして、なかなか古本道は難しいことがいっぱいだといまだに思ったりしている。

ホテルのバイキングでも、端から好きなものを片っ端から取っていたら、わ、最後にステーキとか天ぷらとか寿司とかそういうのありますか、もうお盆に載らないし食べきれないしなんてことも往々にしてあるわけで、自分なんざはそんなことがないように最初にひととおり見回して何があるかを全体として把握してから、ならこういう組み立てで行きましょうなんてやるようにしているが、これはひとまわりがすぐできたり、おかずが充分量あるというのが前提なわけで、古本市の場合、激しい競争の只中で瞬時に これは買い と判断する瞬発量が必要なわけである。と書きながら、そういえば自分は下鴨神社の古本市では端から攻めていくけれども、強者たちはまだ開店前からお目当ての棚の前でかけられたシート越しに目を凝らし、どれを抜き取るか虎視眈々と狙っているのを思い出し、自分なんかそれに比べてまだまだだし牧歌的だわなどと改めてふと思うところだ(とはいえ、そこまでやる情熱を持つのが正しいのかどうかはまた別の話ということで)

 

 

 

 

上白石には気をつけろ

本読みにとって、夏の風物詩といえば、それは各社の文庫本の夏の100冊フェアに決まっている。毎年、100冊の小冊子が出るたびに、新潮、角川、集英社と集め、どれを手に入れようか吟味する。というか、白状すれば、まず最初に今年の景品は何か、というのをチェックしている。そして、これは欲しい、という景品だったら、全種類をどれで集めるか、100冊のラインナップをチェックしている。

2022年の集英社ナツイチの景品であるブックバンドは重宝している。これを書いている、トラベラーズノートを流用した読書ノートでも、中のリフィルをコットンジッパーケースを表紙にしてこのバンドで留めている。本家のトラベラーズノートも、時にクラフトファイルの厚紙をカバーにしてこのバンドで留めた簡易仕様で持ち運ぶこともある。ちなみに去年の2023年は付箋サイズの液晶クリーナーで、今年 2024年はクリップ型ブックマーカーである。

100冊のラインナップを見ていると、ここのところ最近の作家が増えて丸くなったと思う。まぁこれは新潮文庫の話なのだが。最初に文庫本に出会ったのは、中学校の時の国語の宿題での読書感想文でだが、それが新潮文庫だったから一時期 文庫は全部 新潮文庫で揃えようなんて無駄なことをしていた思い出話で、角川文庫は最初から柔らかかった。昔々となった90年代は100冊のラインナップに並んだ名作たちに、それこそ国語の時間に出てくる文学史を感じたものだ。今年のラインナップを改めて眺めても、こういう「名作」は減って最近の作品が増えたが(もしかしたら比率は変わっていなくて、ブンガクなる高尚なものを当時の記憶が崇め奉っているだけかもしれないが)、こういうカタいものだけでは売れないということもあるだろうし、このフェアも毎年やっているから、少しはラインナップを入れ替えないと景品をもらう選択肢がどんどん狭まっていく、というのも100冊のリーフレットをめくりながら思ったりする。

景品で言うと、やはり今年も新潮文庫のキュンタしおりを必然として集めることになりそうだ。しかしこれが去年から本当に難儀なのである。去年の2023年の場合、きちんと100冊のリストに入っているにもかかわらず、帯の背中にちょこっとだけ100冊と書いてあるだけで、他は一見してそれとわからない帯のものがいくつか混じっていたからだ。角田光代「さがしもの」がその一つで、バイトっぽい店員に当たったのは運が悪かったとして、大手書店チェーンのベテランぽい店員にスルーされたので、本屋さん泣かせと同情する。帯からは上白石萌音が見つめてくる。そういう本が何冊かある(過去形だが)。そうそう深夜特急の斎藤工にもやられた。

そんなこんなで今年2024年。今年もやってくれました。新潮文庫の夏の100冊。めくると新刊紹介「大家さんと僕」(矢部太郎)。さらにめくると新刊紹介「ひとりでカラカサさしてゆく」(江國香織)。これは100冊に入りますか!? 入りませんか!? どっちなんだいっ(現在、なんとなく流行っているギャグである)。とりあえず現物確認と本屋に出向くと、カラカサの帯にはまた上白石萌音が。またお前かっ!(いや別に上白石萌音は悪くないんだが)。文庫をまじまじ手に取り、帯を隅々眺め、折り返している部分も確認し、はたまた帯を外して裏側を見ても、今年は100冊とは一切 書いていない。去年は背中に小さくながら書いててあった100冊の文字すらない。しかし置いているのは100冊コーナー。これはしおりをもらえるんですか? ここはとりあえず一度撤退し(昼休み中に本屋に来ていたのである)冊子を確認することに。100冊というなら100冊あるのでしょう、と、新刊も入れて100冊か、抜いて100冊か数えるとなんと100に満たない。そうか、「罪と罰」と「燃えよ剣」は上下巻あるからダブルカウントか、ということでこれらの新刊も100冊に入ります! (旧)Twitterでも、しおりをもらった人がいるのを確認。では安心して買いに行ってみよう(まるで店員を試すようだが)。

とりあえず最後にもう一言だけ。「上白石には気をつけろ」

下が2023年の100冊。背中に小さく100冊の文字。上が2024年の100冊。リーフレットには載っているけど、100冊の文字すらない(入るの? 入らないの?)
追記:

というわけで、本屋に行ってきた。ちゃんとしおりの話になるように、100冊の帯が巻いてあるものとカラカサの2冊でレジに。が、会計が終わってもしおりの話にならないので、あのぅ、しおりはつかないんですか、と言ってみると衝撃の一言。

「あぁ…。百年の孤独 が売れすぎまして、もうしおり、なくなったんですよ。。。スミマセン」

そういう店員のおねえさんが着ている黒いTシャツには百年の孤独の文字が…。

黒幕はガルシア=マルケスか。。。(まだ7月やぞ)

動いてこその経済

なじみの街ながら初めての古本屋に足を踏み入れた。ふとGoogle Mapで調べてみたのである。こんなところに古本屋なんかあったかいなと思ったのだが、訪れてみれば店は2階にあるようで、なるほどよく見ないと気がつかないわけだ。階段を上がりながら女性の話す声を聞き取ったのでオシャレ系古本屋とも思ったのだが、入ってみればそこは一棚本屋で、話していたのは今日の店番の(多分)本業が主婦の人なのであった。熱心に子供の塾の話をしている。
こんなことは言わずもがななのだが、棚は店主の個性が現れる。そして、ここのような街の古本屋は住人の色が強く現れる。今日の店番が教育熱心であるように、本棚も使い終わった参考書や児童書が他より多く並んでいた。(後で確認したところ、こども本棚なる企画であったようだ)
これだけ店主(=棚数)があれば、その分、個性もあるわけで、極論すれば、通常の古本屋はどうしても1店舗確保するためにある程度ラインナップが似たり寄ったりになってしまうのは否めない(ちくま文庫棚とか岩波文庫棚とか、音楽関係で1棚とかそういうことだ)(そして、繰り返すが、あくまで極論すれば、だ)。一棚本屋ではそこまで揃える必要はないわけで、より濃縮されたマニアックな本が並んでいるように思う。しかしだなぁ、抜く本 抜く本、すべてが高い!古本屋に行き慣れているとだいたいこのくらいかと予想というか期待があるわけで、それを上にも下にも裏切ってくるのは確かにしばしばあるのだが、今回はだいたい定価(新刊本の時の値段)の8割程度よりも上、そもそもが1000円を大きく上回るものばかりで興味はあるがヤフオクかメルカリをチェックしてから、と抜いては戻し、抜いては戻し、を繰り返していた。(そして結局は何も買わなかった)
帰りしな、ちょうど棚主募集をしていて、くじ引きすると数ヶ月の借り賃が無料になります、などと説明された。正直、何度も一棚店主になろうかと心は揺らいできたのだが、やはり月に数千円(四捨五入して1万円)の借り賃だと元が取れない。ここは他で聞いた値段よりは相場としては抑えめだったが、やはり元をとるのは無理だろうなぁ、という思いが去来する。こう、価格設定が高いのは、店主が古本屋をあまり訪れないためなのか、逆に差別化するために高くしているのか、それともやはり棚賃を稼ぐためにどうしても高くなってしまうのか? まぁ、そもそもが元を取ろうとしてはいけないのだ。もし自分がやるなら、ヤフオクかメルカリに出すか、その日限りのイベントで一箱分出店という感じだろうなぁと思うのである。そりゃぁ、数多く本を手に入れれば、中にはつまらん本もあるし、ダブって持っている本もあるわけで(単行本があるのに文庫を買ったとか、すでにもっているのに帯つきで買ったとか)。うまく回転させたいし、スペースも空けたいのは山々なのだが、欲をかいてはいかん(と無心のフリをする)
一棚本屋でどうしても言いたいのは、一棚全部を自分の著作で埋める奴。お前はダメだ。しかも同じ本を端から端まで同じ本を詰めている奴。お前は最悪だ。無論、新刊出ましたので自分の棚に置いておきますね、というのは許す。実際、春風亭一之輔師匠が 猫の本棚(神保町)の自身の棚 いちのすけえん に新刊(しかもサイン本)を置くと、本当に瞬殺で消えていく。そして補充される。そしてまた、周りの棚も眺められる。これはあるべき姿だ。一棚本屋自体はしばらく前からボツボツできているし、神保町にも次々できたりしているからその度に何回かは覗いてみる。しかし、そんな端から端まで同じ本を詰めている棚に限って、次に行った時もまた同じ本がまったく変わらずに詰まっている(個人の感想です)。はたまた、一つ飛ばしてまた同じ人の本が詰まっていて、その下も同じ人なんて(えてして大家さんだが)、満腹感限りなし。棚には棚の今を期待しているので、その人を形作った本、今 注目している本、それらがあって棚主の本を解釈したいと思うのだ。はたまた、新刊を読んで面白かったから、しばらく経ったので今度は前に出たものも読みたいニーズに答えます なんてのも大歓迎である。
今日も本屋に向かう。とりあえずは棚の動きを確認。動かない棚は素通り。そんなところに用はないのだ。多くの古本屋であそこはまた行ってもいいな、あっちはつまらんからもういい、なんてことがあるが、同じ世界が縮図として1軒の集合住宅で繰り広げられている。

縦と横

目の前で、ちくま文庫の内田百閒をがっさり一掴み、市場の魚屋のように広げられた平台から抜かれるのを目の当たりにした。京都三大まつり(もちろん古本)の一つ、春の古書大即売会@みやこめっせ のことである。「なんで均一棚でないんだ」と言いながら値段を確かめ、そして意を決したように平台の箱から1ブロック抜いて、それをレジに持って行った。店の人が値札をちぎりつつ足し算しながら値段をつぶやいていって、そのまるでセリで値段が吊り上がっていく様は、むしろなんだか清々しく感じられた。本人曰く、いつか澤口書店でまとまって棚の上に置かれた旺文社文庫の内田百閒 数十冊余りも狙っているらしい。逆に ちくま文庫はそうやってまとまって売られていないので、見つけたら買わねばならないそうだ。

幸いにして、と言っていいのかわからないが、自分の場合はそうやってシリーズをすべて集める、その作家をすべて集めるという修行の道にはまだ足を踏み入れていない。実のところは、集英社の完訳ファーブル昆虫記(10巻×上下=全20冊)はほぼ古本で、しかもすべて帯付き月報ありで集めていて、9巻上まで集めたので残り3冊というところまで来た(ついでながら正確を期すと、原書が出た後で追悼として伝記がつくので、プラス1冊だがこれはすでに手に入れているからやはり残り3冊である)。こういう系統は最後の巻に近づくほど購入者も挫折する人間が増えて出物も少なくなるので難易度が上がるとはいうのはどこぞの本で目にしたところだ。今回のケースは新刊でも売られているし、お金さえ出せばすぐに手に入るので、こんなものは修行のうちに入らない。むしろ最後の1冊くらいは新刊で手に入れてフィニッシュとしたいくらいのものだ。

シリーズをすべて揃えるのを横で集めると例えるなら、版や刷の違うものを集めるのは縦で集めると例えるべきか。つまり、表紙が違う、帯が違う、中身が微妙に違う、極端には何も違わなくても同じ本を何冊も集めてしまうタイプだ。自分の例で言うと、岩波のファーブル昆虫記は同じものを何冊も持っていて、まずは現在 刊行されている全10巻版。そしてその前の全20冊が何パターンか。いや、別にこれらをすべて持っているわけではないのだが。最初はまったく気にせずに全20冊のうちの1つを買ったのだが、これは時折はさまる写真が通常のページと同じ紙で網点が荒いものであった。別の機会に、ここでも売っているかと、むしろいくらなのか気にして手に取ると、それは写真が厚手の紙に解像度が高く印刷されたもので(まさに印画紙に焼いたイメージ)、これは!と叫んでこちらも購入したしだいである。実は高精細の方が年代が古い。ちなみに前者は澤口書店の店頭に並んでいたもので、後者は鳥海書店の入り口に無造作に積まれた中で見つけたものだ。これらがいつ切り替わったのかも気になるし、また、この本自体、昭和ヒト桁時代から刊行されているようで、それがどんなものであるかも気になるところだ。ちなみに、この写真、原書(1920年台に出たイラスト入り版)の写真と同じもので、集英社版はこれがないので、原書がネットですべて読める状態になっているとはいえ、すべて眺めたく、最近の全10巻版で揃えてある(と、この話を書くとすでに長い話がさらに長くなるのでまた機会があったらここに書きたい)。

冒頭では、通称:百閒棚(ひゃっけんだな。書くのもヤボだが百軒店のもじり)について触れたが、当の本人はまた横溝正史にも最近はご執心である。こちらも@ワンダーで全角川文庫80数冊だかを束にして棚の上でアピールをしているが、この横溝正史も縦に集めたら修行の道を呈しているようだ。古本屋に出回るのはおどろおどろしい杉本一文デザインの表紙。これが最近は漢字一文字が大きく描かれた表紙に変わっている。他に映画化された際はその1シーンが表紙となっていたり、いくつか変わり種があるようだ。先日に澤口書店の店頭にそれこそ1棚すべて横溝正史の角川文庫が並べられたので、同じ本でも表紙違いがないかいくつか比べてみたりした。そういえばどうせ中身は変わらないからカバーだけ売ってくれないかな、というつぶやきを聞いた気もした。

内田百閒にしても横溝正史にしても、これらをコンプリートし、はたまたウェブサイトとしてまとめている人もいるわけで、今更これらを自分もコンプリートしようというのは二番煎じなのかもしれないのだが、茶は自分だって飲みたいのだから何番煎じだろうがしかたがないのである。つまらない例では、自分が初めて買った文庫は中学校1年での国語の時間での課題図書だった「心に太陽を持て」(山本有三)だったが、これが新潮文庫だったために、しばらくは文庫は新潮文庫に限る、というか、すべて新潮文庫で揃えたかった時期がある。世の中にはちくま文庫をひたすら集めたり、講談社学術文庫をひたすら集める人間も、はたまた、揃えていますと自負する古本屋だってあるわけで、数が重なり、並べてみると同じ系統だと気持ちよく、はたまた歯抜けだと気持ち悪いものなのだ。古本収集と簡単に言うけれども、それが本気の蒐集に変貌するとなかなか厄介だな、と今更ながら思う。蛇足ながら、今回、「しゅうしゅう」には収集と蒐集の漢字があることを思い出し、確認してみると、収集はただ寄せ集めること、一方で蒐集は趣味や研究で熱心にものを集めることだとか。なるほど今度から本気度のリスペクトを兼ねて蒐集の語も使ってみよう(ただ使いたいだけ)。

本のしるし

この日曜日、鬼子母神通りみちくさ市が開かれた(けれども今回は行かなかった)。

参考:

行った昨年は突然の雷雨に見舞われて、そろそろ行くかというのにさらにもう1周した記憶もあるが、今回もそろそろ終わりかと言うころに雨に見舞われたのではないかとも思う。さて、その昨年の2023年であるが、前に書いたように、数多くの書評や解説を書いた目黒考二氏が亡くなったということで、形見分けとして本人が持っていた本の即売会が開かれた。1冊200円だったようである。空き倉庫に長く並べられた様はまさに古本市の様相で本も値札をつければそのまま古書店に出せるようなほどのきれいさだった。

「本に書き込みをしますか?」なんて質問は少なくとも私にはどうでもいい質問で、これは宗教問題であるので「ギョウザとシュウマイ、どちらが好きですか?」みたいな、いやわかりやすくたとえるならきのこ・たけのこ論争か。あー、私もそっち派ですとか言いたいだけなのか、別に人がどっちだろうが大したことなくて、勝手にギョウザでもたけのこの里でも食べててくださいくらいのものである。

とは言え、話の都合上、私の主張を書いておくと、自分は書き込みも付箋もドッグイヤーもしない派で、むしろ本にびーびー書き込みする奴なんぞヘイトするくらいに思っている(けれども他人事なので別に非難はしない)。ともかくも別に古本屋に売り飛ばすためにきれいにしているなんてことはさらさらなく、単に再度 読む時にまた新鮮な気持ちで作品に向き合いたいだけのことだ。ただ、先ほどは付箋も貼らないとは書いたが、仕事で使う専門書や取材として読む本は別で、参照したい箇所には付箋を貼り、メモは大きな付箋に書いて貼り付けておく(が、やはり本に書き込みはしない)。

そういえば、高校の現代文の時間で、3学期いっぱいかけて夏目漱石「こころ」を扱うべく、教科書に載っている部分だけでなく全部 扱うから1冊 手に入れてこいという指示が出たことがある。国語の時間なのである意味 当然と言えば当然だが、重要な部分には線を引けと先生がのたまうのである。自分はそれがどうしてもいやで、書き込み用の「こころ」をもう1冊 手に入れた。(そしてそれは多分、ブックオフで100円で売っていたものであろうかと思う)

大学の後輩は何にでも線を引く奴で、教科書に線を引きながら勉強をしていた。再度 書くが何にでも線を引くので、どういう基準で線を引くのか問うたことがある。曰く、大事なところ、との答えである。見たところ8割くらいに線が引いてあるので、よほど大事なことばかりが書いてある本なのだろう。さすが教科書だ。また線に赤線と青線があるので違いを問うたところ、気分だ、との返答であった。私なぞ大学に入るのに過去問を何度も何度も解いて勉強したんだが、こいつは一発で解けるようになったのか、それとも解く度に新しい過去問集を用意していたのか、それとももともと頭がよくてそういうことすらしていないのか。まぁこれも昔のことだからどうでもいいことだ。

古本も書き込みがあると値段も安くなることが往々にしてあるかと思う。専門書の類は前の持ち主の心情など気にせずに読むので線の引いてあるのを安く買うのもある。が、さすがにピンクのマーカーでびーびー引いてあるのは少し逡巡する。たまに謹呈とか、ついでに一言 添えられているものもあるが、これは見開き部分だけだからまったく気にするほどでない。また、蔵書印が捺してあるものにも出会うが、むしろこちらは喜ばしく迎えそうな気がする。散々に本はきれいなままでなければならない主張をしていた気もする私であるが、サイン本はいくつかあるし、会合でご一緒した際に本人にサインをお願いしたこともある。

昨年はまた別の機会で、自分の業界の大御所先生が亡くなっていわば偲ぶ会が催された。ここでも蔵書の形見分けが行われ、何冊かいただいてきた。こちらは蔵書印や本人のサイン、場合によっては手に入れた年と場所が書き込まれていた。

実際のところ、こうやって著名人の形見分けのときは、確かにその人がこの本を持っていた、という証左が、蔵書印なりサインなどで「しるし」として刻みついていてほしいというのは確かに感じるのである。そして本人に近ければ近いほど、図鑑に書き込まれた「極極稀」のような文字もむしろいとおしく感じるのではと想像する。これも多分に気分なのだが、そして自分としても矛盾していると思うのだが。

かといって、自分も将来の形見分けのために蔵書印でも捺すだろうか? あくまで平凡な自分にはやはりためらわれる。本が貴重で自分の所有物であると主張する価値が今は薄いから? いずれまた古本として次の持ち主に手渡したいというモノとしての価値を感じているから? 自分としてもよくわからない。宗教や心情に理由などないのだ。カッコイイ蔵書印を作ったとして「一生 手放さない。棺桶に入れて焼いてくれ」というような本にそれを捺すだろうか? やはり捺すことはしないような気がする(なら作っていつ捺すのか? 何に捺すのか?)。ましてや人の形見分けの本に、自分の蔵書印をさらに捺すようなそんな中国の掛け軸のようなことは、さすがにする気もない。ただそういう本なら一度、どこかで見てみたい気があるのも、自分の中の正直なところなのである。

神保町トイレ問題

給料が振り込まれて、少し多めに下ろした。夕飯の食材をスーパーに買いに出るたびに、一万円札で払って千円札を手に入れた。これも、神田古本まつりに参戦するためである。

今日から神保町で春の古本まつりが始まった。前段の行動は半年前の秋の古本まつりでのことだが、今回も似たり寄ったりだったのは間違いない。秋の方が有名で規模も大きいし、気合いも乗っていただけのことだ(古本欲が高かったのもある)。昨年の秋も今回も、仕事が忙しくてさすがに平日に行くことはかなわないのだが、前回も土日ともに参戦して思わぬ収穫を得られたし、今日もしょっぱなからいい本を引き当てたので、また今度の土日にも参戦して新たな出会いを求めたい。そもそも今日は午後から雨が断続的に降ったし、強風で店の人たちも難儀していたので、まだ半分も見ていないのだ。

ありきたりながら新型コロナももはや(感染状況などの情報が表に出なくなって)過去のものとなって、イベントなども通常通り行われることとなり、10月末の方はいつになくすごい人手で、すずらん通りのイベントも大盛況すぎてなかなかブースに近づけず、移動するのも少々難儀したほどだった。

人が多いのは、街にとっても業界にとってもいいことだと思うのだが、それ以上に、とは言ってもあくまで個人的な事情だが、困るのはトイレなのである。私も本のニオイを嗅ぐとトイレに行きたくなるクチで、本読みの中では改めて触れるべくもないが、本にまみれると、つまり新刊、古本問わず(というか人それぞれだが)本屋に行くとトイレに行きたくなるという現象が広く見られるようで、これが世にいう「青木まりこ現象」である(Wikipediaにも項目がある)。私の場合、新刊本もそうだが手垢のついた本により反応する。なので古本屋の方が腹にくるし、図書館でも腹が反応する。

神保町でお世話になってきたトイレの二大巨塔は三省堂神保町本店と岩波ホールの入っていた地下鉄A6出口の地下1階であった。しかし、今は三省堂は小川町の仮店舗に移って元の場所は更地だし、岩波ホールも閉業してトイレも使えなくなっている。ということで、現在お世話になっているのは、東京堂書店か、岩波アネックスの方の本屋 兼 カフェ、あとは書泉?(もしかして使ってはいけない?)…そんなところだろうか? しかし、これらは三省堂や岩波ビルと違って個室の個数が圧倒的に少ないのだ。。。(三省堂は複数のフロアにトイレがあったのでトータルとしても数が多かった)。

今日も東京堂にお世話になったが、春はまだ人が少ないので、数分並んだだけで済んだ。秋も、外は大賑わいということもあってトイレ事情が懸念されたのでクリティカルになる前に東京堂で早めにトイレに赴き、しばらく並んで事なきを得ている。しかし女性の方はトイレの外でも長蛇の列だったので、男性の方も同様に長蛇の列なのかと来る人みんなに一瞬の悲壮感が漂うほどであった。

昨年は京都の三大まつりに参戦したので(当然ながら古本のまつりである)、下鴨神社ではトイレットペーパー代わりの水に流せるティッシュをレトロな自販機で購入したし、知恩寺でも寺の裏の物置のようなトイレも経験済だ。が、この時はそれほど並びはしていなかった。京都では便意がどこかに行くわけでもなかろうし、関西人は便意とは無縁というわけでもなかろうし、はたまた規模がそれほどまでに違うわけでもないと思うのだが。なかなかに不思議に思う。

SNSで古本まつりの情報収集(あるいは戦果の報告)などを見るに、店側(ワゴン)の手伝いをしているような特級(=神保町の手練れ)の人々は、しれっとどこぞのトイレに行っているようだ。それか便意を催さないような体質に鍛えているわけでもないとは思うのだが、ぜひこういう方々にはどこのトイレを利用していているのか聞かせてほしいものだし、神保町も最近は店の入れ替わりがあるので、むしろトイレだけ作ってくれないかと、むしろお賽銭くらいは払うのに、などとも思ったりする。まぁこれも三省堂書店が戻ってくるまでか(とはいえ、あと2年くらいあるようではあるが)。ぜひ三省堂さんにはトイレも頑張っていただきたいなぁ、と今から謎の期待をしているところである。本の戦場(いくさば)に出ると、優雅にコーヒーなど飲む間も惜しいのだ。。。(というか、お茶するための席の確保もトイレ同様に熾烈なのだが)