蛙蓮堂 書肆部

アレンドウ ショシブ。書肆と名乗りつつ本を売っているわけではない(まだ)。本屋を巡り、本を探す。

縦と横

目の前で、ちくま文庫の内田百閒をがっさり一掴み、市場の魚屋のように広げられた平台から抜かれるのを目の当たりにした。京都三大まつり(もちろん古本)の一つ、春の古書大即売会@みやこめっせ のことである。「なんで均一棚でないんだ」と言いながら値段を確かめ、そして意を決したように平台の箱から1ブロック抜いて、それをレジに持って行った。店の人が値札をちぎりつつ足し算しながら値段をつぶやいていって、そのまるでセリで値段が吊り上がっていく様は、むしろなんだか清々しく感じられた。本人曰く、いつか澤口書店でまとまって棚の上に置かれた旺文社文庫の内田百閒 数十冊余りも狙っているらしい。逆に ちくま文庫はそうやってまとまって売られていないので、見つけたら買わねばならないそうだ。

幸いにして、と言っていいのかわからないが、自分の場合はそうやってシリーズをすべて集める、その作家をすべて集めるという修行の道にはまだ足を踏み入れていない。実のところは、集英社の完訳ファーブル昆虫記(10巻×上下=全20冊)はほぼ古本で、しかもすべて帯付き月報ありで集めていて、9巻上まで集めたので残り3冊というところまで来た(ついでながら正確を期すと、原書が出た後で追悼として伝記がつくので、プラス1冊だがこれはすでに手に入れているからやはり残り3冊である)。こういう系統は最後の巻に近づくほど購入者も挫折する人間が増えて出物も少なくなるので難易度が上がるとはいうのはどこぞの本で目にしたところだ。今回のケースは新刊でも売られているし、お金さえ出せばすぐに手に入るので、こんなものは修行のうちに入らない。むしろ最後の1冊くらいは新刊で手に入れてフィニッシュとしたいくらいのものだ。

シリーズをすべて揃えるのを横で集めると例えるなら、版や刷の違うものを集めるのは縦で集めると例えるべきか。つまり、表紙が違う、帯が違う、中身が微妙に違う、極端には何も違わなくても同じ本を何冊も集めてしまうタイプだ。自分の例で言うと、岩波のファーブル昆虫記は同じものを何冊も持っていて、まずは現在 刊行されている全10巻版。そしてその前の全20冊が何パターンか。いや、別にこれらをすべて持っているわけではないのだが。最初はまったく気にせずに全20冊のうちの1つを買ったのだが、これは時折はさまる写真が通常のページと同じ紙で網点が荒いものであった。別の機会に、ここでも売っているかと、むしろいくらなのか気にして手に取ると、それは写真が厚手の紙に解像度が高く印刷されたもので(まさに印画紙に焼いたイメージ)、これは!と叫んでこちらも購入したしだいである。実は高精細の方が年代が古い。ちなみに前者は澤口書店の店頭に並んでいたもので、後者は鳥海書店の入り口に無造作に積まれた中で見つけたものだ。これらがいつ切り替わったのかも気になるし、また、この本自体、昭和ヒト桁時代から刊行されているようで、それがどんなものであるかも気になるところだ。ちなみに、この写真、原書(1920年台に出たイラスト入り版)の写真と同じもので、集英社版はこれがないので、原書がネットですべて読める状態になっているとはいえ、すべて眺めたく、最近の全10巻版で揃えてある(と、この話を書くとすでに長い話がさらに長くなるのでまた機会があったらここに書きたい)。

冒頭では、通称:百閒棚(ひゃっけんだな。書くのもヤボだが百軒店のもじり)について触れたが、当の本人はまた横溝正史にも最近はご執心である。こちらも@ワンダーで全角川文庫80数冊だかを束にして棚の上でアピールをしているが、この横溝正史も縦に集めたら修行の道を呈しているようだ。古本屋に出回るのはおどろおどろしい杉本一文デザインの表紙。これが最近は漢字一文字が大きく描かれた表紙に変わっている。他に映画化された際はその1シーンが表紙となっていたり、いくつか変わり種があるようだ。先日に澤口書店の店頭にそれこそ1棚すべて横溝正史の角川文庫が並べられたので、同じ本でも表紙違いがないかいくつか比べてみたりした。そういえばどうせ中身は変わらないからカバーだけ売ってくれないかな、というつぶやきを聞いた気もした。

内田百閒にしても横溝正史にしても、これらをコンプリートし、はたまたウェブサイトとしてまとめている人もいるわけで、今更これらを自分もコンプリートしようというのは二番煎じなのかもしれないのだが、茶は自分だって飲みたいのだから何番煎じだろうがしかたがないのである。つまらない例では、自分が初めて買った文庫は中学校1年での国語の時間での課題図書だった「心に太陽を持て」(山本有三)だったが、これが新潮文庫だったために、しばらくは文庫は新潮文庫に限る、というか、すべて新潮文庫で揃えたかった時期がある。世の中にはちくま文庫をひたすら集めたり、講談社学術文庫をひたすら集める人間も、はたまた、揃えていますと自負する古本屋だってあるわけで、数が重なり、並べてみると同じ系統だと気持ちよく、はたまた歯抜けだと気持ち悪いものなのだ。古本収集と簡単に言うけれども、それが本気の蒐集に変貌するとなかなか厄介だな、と今更ながら思う。蛇足ながら、今回、「しゅうしゅう」には収集と蒐集の漢字があることを思い出し、確認してみると、収集はただ寄せ集めること、一方で蒐集は趣味や研究で熱心にものを集めることだとか。なるほど今度から本気度のリスペクトを兼ねて蒐集の語も使ってみよう(ただ使いたいだけ)。